二つの物差し 

 
 ノーベル経済学賞を受賞したハーバード・サイモン教授は、人の行動について「人間は完全に合理的ではない。 意図的、あるいは主観的にしか合理的に行動できない」という限定合理性を説明しています。

 このことは、「人間は二つの物差しに依存して行動している」とも言い換えることができるのではないでしょうか。 その一つは、誰しもが納得する「合理的な物差し」。 もう一つは、主にその本人が納得する「価値の物差し」。 実は、この二つの物差しの軽重が具体的な本人の行動を左右しているんじゃないかと。 特に後者の「価値の物差し」は、いつもしぶとく最後まで自分の行動を左右する。 そしてこの「価値の物差し」は、いつも同じではなく、更に時間の経過とともに変化してゆく・・・ということなんです。

 そう考えると、サイモン教授の曰く「主観的にしか合理的に行動できない」という意味も説明できるかもしれません。 つまり我々の社会では私のいう「二つの物差し」がいつもついて回っているのだと思うんです。 広く考えるとそのことは、「理科と文科」ということになるかもしれません。 このことについては又べつに考えることにしましょう。 さて、古来人間はこの「二つの物差し」を明確に意識して行動してこなかったことが、様々な混乱・判断の誤りを生む要因になってきていると思うんです。 それぞれを同じまな板の上で料理しようと無理なロジックを作り上げたり、それこそ権力を振り回したりすることでことを進めようとしがちです。

 一般に我々は自分に直接関わりのない事柄については、主に今まで培った「合理的な物差し」で判断します。 ただ、我が身に関わることについては本当のところはそれまでに身の内に培われてきた自分の「価値の物差し」で判断しがちです。 実は、直面する事柄が我が身に関わるかどうかという判断は、その人固有のもののようでして、身の内で実に素早く巧妙になされているように思えます。 その結果決定された意志は誰にとっても選択すべき合理的な判断であるという錯覚に陥ってしまい、またそのことに全然気がつかないということになっているんだと思うんです。

 さてさて、今の世の中、思い当たることがだいぶありそうに思えてきます。