会話は対話

 十数年前のこと、あるTV番組の中で対話ロボットについての紹介があったのを思い出しました。 性能から見ると、生身の人間と比べて比較にならない程度の会話能力、 それも事前にインストールしてある仕組みの中で発生してくる会話能力しかないことは実演からも良くわかりました。 そして、それを見た多くの人は「まだまだだよ!」とちょっと皮肉っぽく笑いながら反応するレベルのものでありました。 確かに生身の人間から見れば会話の際のタイミング、イントネーション、発音、しゃべる中身のパターン等まさにまだまだB級ロボットでした。

 でも、これらの視点から見た技術レベルは将来間違いなく劇的に進歩するに違いありません。 なにせ、現代の技術者は目標を定めればなんとかそれを達成してしまう能力を既に獲得しているからなんです。 だから、近いうちに生身の人間と会話をしているかのような、いわゆるA級ロ ボットが出来上がってくるに違いありません。 そうなると、もはや「まだまだだよ!」と言うことが出来ないような時代になるわけです。 それはそれでめでたい話ですが、私が感じたのはそのような技術レベルの高い低いということではないんです。 どちらかといえば、ロボットに言葉を投げかけるこちら側のことについてもよく考えてみる必要があるんじゃないかなということなんです。 

 私は「会話は対話」だといつも思っているんです。 実は、自らが発する言葉に対して相手が何らかの反応をしてくれる・・・そのことによって、その反応がなければ生まれてきそうもない、思いも寄らなかった新たな発想が浮かんでくる事が良くあります。 それは相手の「仮の意志」に反応して産まれてきた我が思いなんでしょう。 「仮」と言うのは、相手が自分の言葉にどう反応しているかと言うことを自分流に解釈することで、それが相手の意志だと判断しているから「仮」と言っているんです。 ですからこの場合の判断は実際は相手の本当の意志とはほとんど関係ないかもしれないということになるわけです。

 つまり、自らの新たな発想を生み出す手段として、相手に言葉を投げかけることを利用している。 つまり会話の相手を「仮の意志」が返ってくるだろうサウンディングボードとして活用しているんです。 よくカウンセリングで大事なことは、相手の言うことを辛抱強く聴くことから始まり、辛抱強く聴くことに終わるといわれています。 又、何か答えるときは、特に反対するのではなく肯定的に答える方が良い結果を生むとも言われています。 どうやら人は互いに会話することによっ て、特にそれが何らかの肯定的な反応を伴って返ってくることによって、更に新たな思いが我が身の中に生まれてくるように造られているような気がするんです。

 つまり、人間というのは互いに創り出すこのような日々新たな関係性を使うことによって、又明日も生きてゆけるような仕組みを創り出し、ここまでやってこられたのではないかなとさえ思えるんです。 だから最近よく言われる「自発」の大事さ、つまり自ら動き出すためにはどうしても社会との関係性がちゃんと用意されていることが大事なことではないかなと思うんです。 中でも大事な関係性が「対話」なんじゃないかと。

 だからたとえ対話ロボットの会話能力がB級であろうと、相手との関係性さえ確保できていると感じることが出来さえすれば、たとえ それがロボットだとしても「対話」が成立してしまうはずです。 また、その関係性が確保できていると感じることそのことが身のうちに新たな明日を創り出すエネルギーになっているのかもしれませんね。