異なる文化との意識した対話

 これからの新しい時代を生き抜いてゆくための新しい知恵は、長く続いた同じ文化の中からはなかなか生まれてこないと思います。 実は異なる育ち方をした異なる性格を持つ集団と接することによって、初めて今まで思いもしなかった知恵が、それも互いの側に生まれてくることがよくあります。 最も、努力してして互いを知ろうとする気持ちあってのことですが。

 時に人が集団を構成したがるのは、そういったことを本能的に求めてのこともあるのかなと。 もっとも、集団を作ることによって我が身を守るという生存のための基本的な本能が強いということも十分理解できます。 でもその結果として、自分ひとりでは思いもつかない新しい知恵が新たな集団から生み出されてくる・・・。 ということは人間は本能的に社会性を求めるものだということも示唆していると思います。

 例えば、生物が近親交配を避けるというのは生存してゆく過程で様々な危機を経験してきた生き物のこれも本能的に成せる技なんでしょう。 劣性遺伝子が重なって重度の障害が起こる可能性を排除しようということがあってのことだとは思うんですが、更に新しい組み合わせを是非得ようとする見えない仕組みもあるのではないかとも考えられます。 なぜならば、その新しい組み合わせがたとえ生存にとって更に悪い因子を発現する可能性を持っていたとしても、さらにもっとよい因子を生むケースも確率的に残っていさえすれば、生き残るのはそのよい因子だけだからだと思うのです。

 だから、新たに集団ができ始めてしばらくはその中での「対話」によって良い悪いは別として、新鮮な知恵がどんどん生まれてくるのが普通です。 でもそれらが取捨選択され集団の価値観として大体行き渡り、その中に属する人々にとって「これで良いのだ」というなにやら共通の安心感が芽生えてくると、実は衰退が始まることになるわけです。 それはその集団に属しているという、いわば心地よい住みやすさそのものが、自分以外の思いと接することによって新たな知恵を生む厳しさを避けたいという思いをもつものの比重が多くなってくるからでしょう。  このことも人の持つ本能のようなもんでしょうね。 つまり今までは対話によって自分だけでは創造し得なかった新しい知恵が生まれてきたわけですが、相手が何を考え何を大事にしているかということまでほぼ共有されてしまうと、もはやその集団は本来の新しさを求める我がサウンディングボードたる役割を果たし得ない状態になってしまっているということなんだと思うんです。 つまり、今まで見えていなかった集団の劣性遺伝子が、次第に表舞台に現れてくるようになってしまうんでしょうね。 そしてそれが劣性遺伝子である宿命として、その集団の継続的な生き残りが早晩不可能になってくるというわけです。

 そういった自己矛盾を解くために、以前「戦略的思考の勧め」ということで、ある先生から次のことを学んだことを思い出しました。 つまり、

 1.固まってしまった頭をほぐす為には、異なる言語圏(世界)に接してそれを
   翻訳する技術を学ぶこと
 2.その為には、無理をしても同じスイタイルをさけること
 3.戦略思考のポイントは
   ・最終的にどうしたいという原点思考を心掛けること
   ・一言で表現する情報圧縮を心掛けること
   ・無理をしてでも複眼思考を心掛けること
   ・自ら場を転換させることにより異なる情報に接するよう心掛けること

どうやら最後の「自ら」というのが大事そうですね。